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映画・音楽を作る・その他の話。

映画は父を殺すためにある

「映画は父を殺すためにある」という本を読んだ。
サブタイトルが、「通過儀礼という見方」。
映画の見方、という内容の本はとても好きで、
ただの感想ではない映画評論によって気づかされることは
多い。
音楽もそうだけれど、世の中の「評論」は、だいたいが感想とか
個人的な主観なので、あまり興味を持てなかったりするのだけれど。
「感じるな、考えろ」です。

ところで、物語を成立させるためには、通過儀礼的な内容が必要であるという
(そうとうざっくりした理解ですが)ことはこの本以外でも何度も読んでいる
のだけれど、自分にとっての通過儀礼的なものはなんだったのだろか、
なんて考えたりしてみる。
ぼくは、どんな「父」的なものを殺して、いまここにいるのか。
あるいは、まだ殺せていないのか。
成長に必要な「のりこえるべき試練」はあったのか。
あったとしてのりこえてきたのか。

ここには書かないけれど、
いくつかのポイントがあったのは間違いない。
ぼくなりに、ひどくつらいと思い、困難である、といったことを
こえて、そしてその都度、少しはそれまでとは違う自分として
「こちら側」に帰ってこれたように思える。

そして、まだ物語は終わらない。