now’s the time !

映画・音楽を作る・その他の話。

 全部聴いてからものを言え。

ぼくは大学のときには 軽音楽部 に所属していて、
歴史ある部でもあったので、その音楽性も時代によって移り変わってきたようだ。
ぼくが入学したときの中心メンバーは完全にニューウェイブ寄り、さらに均衡して
フュージョン系のテクニック追求型の先輩方もいました。
軽音部歴6年とか7年とかの先輩もいて、(大学院の人はいなかったんだけれどなあ。。)
その人たちは、プログレずきが多かったかなあ。でもジャンルさまざま。
オリジナルが原則っぽいサークルだったので、みんなオリジナルを作っていたんだけれど、
そういう人たちが、普段の苦悩を忘れて(サークル活動でなに悩んでんだ?)
学祭即席バンドを作って、 Yes なんかやったりして、マニアックに盛り上がってました。
(ぼくも普段は妙な音楽を作ってたけれど、即席バンドにはボーカルで呼ばれて、イエスやったり
ビートルズやったり、、、)


文化系中の文化系で、体弱そう、顔色悪そう 着ている洋服は黒ばっかり(それがニューウェイブ的だったんだけれど)なんて中で、飲み会になるとひたすら音楽のことを語ってました。
もちろん、アメリカンロックずきの人も入れば、メタル好きの人も入ればなんだけれど、
けっこう先輩みんなに共通していたのは、自分の好きな音楽はもちろん、あまり普段聴いてないだろう
音楽についても詳しいってこと。


飲み会の席では、先輩後輩交えて ぐりぐりと話すのだけれど、
なにかの音楽について話すときに言われたのが
「全部聴いてからものを言え」ということ。
誰が言ったかも覚えてないし、いまやぼくの妄想かもしれないけれど、
たしかにあのときはそんな雰囲気あったなあ。
例えば、「ビートルズってさあ」って話したいなら 213曲全部聴いてから意見を言いなさいってこと。
その考え方って、性が合ってたのか、すごい納得できて、それからと言うもの、
全部聴く、見る、読む ってことは考える基本になってしまいました。
ほぼ全部聴いているアーティスト、見ている映画監督、読んでる作家、けっこういるはず。
雑誌なんかも創刊から全部買うとかけっこうやりました。


でも、もうほとんどが挫折している。
それは自分にもうパワーがなくなっているせいと、
だって、面白くなくなったんだもん とかいう言い訳とか
雑誌買い続けるにも、置く場所がないとか が理由であります。


でもさっき気づいたことがある。
ぼくが大学生だったころ。
CDは出たて、ビデオレンタル開始直後。
アーティストの作品を全部聴くには LP買うしかなかったし
(レンタルは嫌いだったのとマニアックなものはもともと置いてない)、
映画見るには映画館に行くしかなかった。
(レンタルは嫌いだったのとマニアックなものはもともと置いてない)
だから、できる範囲内で全部ってのは、けっこう可能だったのだ。
映画はぼくの暮らしていた街では、300円、500円、800円で2本っていうような名画座
いくつもあり、バイトやバンドの練習がないときはいつも通っていた。
ゴダール特集の3ヶ月間に、そのときにかかったゴダールの映画を全部見ることはできた。
でも映画館でやらないものは見る事なんてできなくて、伝説にすぎなかった。
CDが出始めて、中古レコードの価格が下がり始めたころでもあった。
廃盤になってるものは、中古屋で見つけるか、誰かに借りなければ、
聴くことは無理だったのだ。(そこに語る側のアドバンテージもあったけれど。
えー、聴いてないのぉ 見てないのぉ てきな(笑))。


それが、気がついたら、村上春樹ムーンライダーズはいまも現役で、新作は出すは
エッセイは出すは、紙ジャケ再発はするは、ベストは出すは、で もの自体が増え続けてる。
映画だって、次のリバイバルまで見れないのが当たり前だったのに、見ようと思ったら
ヒッチコック一式」いますぐ、amazonで注文することだって可能だ。
ビートルズだって‘公式レコーディング曲’が増え続けている。
解散して、二人死んじゃったバンドなのに。ぼくはビートルズの公式曲は
彼らが自分で選んでリリースした作品 アルバム13枚 シングルのみの曲も合わせて213曲だけ
だと思っている。(パーロフォンで最初に出したCDBoxはこの内容でした 215ポンド)


ややこしい世の中になった。
ビートルズって、ジャムって、トッドラングレンって、イエスって、ポリスって、
トーキングヘッズって、クリムゾンって、ゴダールって、フェリ−二って、デパルマって、
スコセッシって、村上春樹って、ジョン・アーヴィングって、(以下、ものすごく省略)
っていう話のときに
「全部聴いてから(見てから、読んでから)ものを言え。」ととりあえず、
ぼくには言えなくなってしまったんだなあ。


1973年のピンボール」かなにかで、「鼠」あたりが言っていた。
死んだ作家の作品しか読まないって。
理由がどうだったかは覚えていないけれど。
でも小説は、レコードと違って、(たまに発掘されたりはするけれど)
死んだ後には作品は増えない。そして、作品は変化しないのだ。
サリンジャーの作品を(ほぼ)全部読んだ という事実は変わらない、ということ。
黒澤の映画も増えたりはしない。(ぼくは半分くらいしか見てないけれど)
そういうものの捉え方ってあるんだ。